亜麻は世界に於ける織物原料の最古のものであるとされているが舊約聖書の創世記に
「パロすなはち指輪をその手より脱して之をヨセフの手にはめ之に白布(リネン)を衣せ金の鎖を其の頸にかけ之をして己のもてる次の輅(くるま)に乗らしめ下にいよと其前に呼しむ是彼をエジプト全国の家宰(つかさ)となせり」 第41章42節、43節
とあり。リネンLinenという語の最も古い記録であってその様な古代に於いて既にリネン(亜麻布)が衣服の資料として広く使用されていたことがわかる。
地球上の人類が棲息した最初の場所は現在の中央亜細亜のイフフラテスEuphrates河の流域であると云われて居るが此の地方は温度が非常に高く殊に夏季に於いてそれが一番甚だしい爲に毛織物は用いられず唯一の衣服資料として知られて居たものは亜麻であった。亜麻Flaxと云う語の最初の記録も亦舊約聖書に発見される。
出埃及記に
「雹(へう)エジプト全国に於て人と獣畜(けもの)といはず凡て田圃(たはた)にをる者を撃り、雹また田圃の諸(もろもろ)の蔬(くさ)を撃ち野の諸の樹を折れり」 第9章25節
「偖(さて)亜麻と大麥(おおむぎ)は撃れたり大麥は穂いで亜麻は花咲居たればなり然ど小麥と裸麥は未だ長ざりしによりて撃れざりき」 第9章31節、32節
とある。
亜麻を以て糸を紡ぎ布を織る事も亦舊約聖書に現れて居る所であって箴言(しんげん)に
「彼は羊の毛と亜麻とを求め、喜びて手づから操き商賈(あきんど)の舟のごとく遠き國よりその糧を運び、かれ手を紡線車(いとぐるま)にのべ、その指に紡錘(つむ)をとり、蓋(そば)その家人みな蕃紅(くれない)の衣を製りてこれを売り、帯をつくりて商賈にあたふ」 第31章13節、19節、21節、24節
とありヘブライHebrew人の勤勉な家婦達の性質と職業を傅へて興味あるものである。亦古代の埃及(エジプト)に於ても亜麻を栽培し其繊維を利用して糸を紡ぎ布を織り今日吾々を驚嘆させるに足る技術を以って實用に供して居った事は種々の事實によって證明せられて居る。
古代埃及に製出せられた織布は今日カイロ及其他の各地博物館に保存せられてあるが木乃伊(ミイラ)の被覆に亜麻布が使はれて居る事は人口に膾炙(かいせき)して居る。屍體(したい)を幾重にも亜麻布で巻き顔をリネンのナプキンで覆ふて葬る事が一般の習慣であった様である。
勿論貴賎貧富に隨って一般に使用される亜麻布が違って居たが生麻布の外黄、赤、紫等に染め出したものや美しく刺繍したものさえあって長いものは三百碼(ヤード)に及ぶものがある。
現在最古の麻布としてはツエル王(埃及第一王朝時代-三千九百年及至五千年以前)の墓
から出た木乃伊の巻き布に用ひられた織物位しか傅へられて居ないが非常に目が細く糸が規則正しく揃って殆ど近代薄地カムブリックCambricに似たものである。
現時埃及に於いては十一月の中頃ナイル河畔の耕作地に種子を下し百十日を経た三月に収穫を終わるのであるが古代から気候状態が變化(へんか)したものと考えられないから舊約聖書に現れたパロPharaohの時代から同じ様に種子が下され収穫されて居つた事が想像される。
其の耕作の方法や収穫、浸水、製線の方法も原理に於いては現今のものと餘り變らないものであった様である。壁書に描かれたところによると収穫した亜麻莖を水に滿した桶に浸して醗酵させ乾かした後に槌を以って莖を碎き繊維と殻とを離れ易くし木片を以って殻を敲き落とし更に櫛様のもので繊維を細く裂き短い繊維を除いた上で紡績に供したものである。
その頃の亜麻の紡績と織布は殆ど全部手の働きによって行われたもので亜麻糸紡ぎには原料を括り付ける桿Distaffが使用された丈である。後に至って此の桿の外に紡錘Spindleが使用された様であるが此の二つの道具は爾來數千年に亙つて世界各国民の紡績に使われて今尚未開の民族は云ふに及ばず欧州の最も進んだ諸国に於いてすら使用されて居る。
今日遺物によって想像すると織物は極めて粗末な構造であったが余程大きなものであった様に思われる。木乃伊(ミイラ)に着せた布地を調べて見ると幅が五呎(フィート)もあって面も片端
が切られて居る。従って随分廣幅のものであった事が想像せられる。長さも六十呎(フィート)若しくはそれ以上のものがあった事が推定せられて居る。而して粗いものを織るには機を水平に置き薄地のものは直立した機で織られたようである。
聖書に現れた所ではリネンは最も廣く用ひられた衣料で今日印度人が頭に巻いて居る様なターバンTurdan(頭巾)であるとかフードHoodと稱する頭から背に長く垂れた白布やストマツケルStomacherと稱する腰部を覆ふ布などに多く用いられた様である。古代埃及に於いて此のリネンを使用した事は莫大なものであった事が想像され木乃伊の巻き布に使用されたもの丈でも非常なものであったらしい。面白い事には人間の屍體許りでなく動物の屍體に迄リネンの巻き布が使用され前記の様な立派な細布から帆布の様な粗布迄も古墳から發見されて居る。
帆布が此の時代に亜麻を原料として多く製織せられて居つた事は明な所である。後に種々の意匠を擬した刺繍が施され或は市松模様や縁取りの美しいものが現れアントニオAntonyとクレオパトラCleopatoraがアクチウムActiumの戦争に行った時に二人の乗った船の紫紅の帆が一際目立ったと語り傳へられて居る。
斯く埃及(エジプト)に於いてはリネンの需要が莫大であった許りでなく廣く国外に迄輸出し名聲を博した。リネン布のみならず亜麻糸が輸出された事も聖書に現れソロモンSolomanが埃及から亜麻糸を買った事が記されてある。
斯く埃及に於いては古代既に亜麻が利用せられて居たが埃及人は海上に親しまなかった國民であったからこの驚くべき技術も他國に傳られず紀元前千二百年乃至二千年に始めて他國人の手によって希臘(ギリシャ)及羅馬(ローマ)に移入せられ漸次佛蘭西(フランス)独逸(ドイツ)、フランダー及英國に及んだものと考えられて居る。
特に現在のギリシャの一部を占めたフェニキヤ人は有名な航海者であり多數の船舶を所有して遠隔の地に迄貿易に出掛けた。而してその貨物の主要なものの一つは埃及のリネン布であった。フェニキヤ人が亦其の航海に當つて風の力を巧に利用したことは有名な話で此の爲に帆布
用の亜麻布や綱索が需要され埃及から大量に供給されたことが記録に残って居る。尚又彼等は航海中寄航する國々へ精良なリネンを輸出したのみでなく亜麻の栽培と其の製造法を傳へたであらう事は想像に難しくない。
古代バビロニアに於いても廣大な地域に亜麻が栽培されたチグリスTigris並びにイフフラテスEuphrates河畔に群つた都市はリネンの製造を以って聞へ全國に今日見るやうなリネンの織工場が散在して居たと云われる。
ギリシャのリネンに就ては有名なイリヤドIliadの詩の中に用いられて居るリネンに関する二の章句がある。それによって其時分リネンが埃及から舶載されて居つた事が推定せられる。アテネAthenaは紡績と織布を司る女神であるとせられ其の祭壇に向かった花娶は彼女の毛髪を截り錘に巻いて結婚の捧物としたとある。
アテネの町の婦人達は地上に達する白衣を纒つて居たが或るものは袖が無くてボタンで肩に締め付け、他のものは手首に届く様な袖を垂らしたものもあった。
此等の衣服は古代に於いてはアツチカAtticaで産出したリネンを用いたが埃及テリTyre或はシドンSidon等から輸入したものも用ひた。後にはタレンタムTarentumから輸入したモスリン或は埃及の棉を以て國内で織出したものを用いたがリネンは依然盛んに使用せられ此等二者を凌駕して居つたと云われて居る。
ギリシャ人は埃及人に真似て立派なナプキンの様なものを使って居つたが之は今日のハンカチの用を爲したものでその原料となる亜麻は主としてイスランドIslandに耕作され繊維は非常に高級なものであつたと云われて居る。
羅馬帝国が興つた頃からギリシャは次第に衰亡し其属國になつて仕舞つた。それと共に羅馬帝国に於いてもリネンが廣く使用される様になり衣服の料となつた許りでなく特に婦人の上衣に用いられ寝臺のシーツ、テーブルカバーやナプキンに使用された様である。其の時分は未だナイフやフォーク、スプーンが無かったので食事の際にはナプキンで手や口を拭ふに忙しかつたと記されて居る。又リネンのタオルが浴場にも使用された。
リネンの厚布は多量に帆布に使用されたが外に野天劇場の天幕に使用された紀元前四十六年チュリアス シーザーJulius Caesarの催した劍闘劇の上に張られた事が記されて居る。
今日の伊太利(イタリア)に於いて其頃亜麻が産出された事は申す迄もないがスペインやゴール其他の羅馬帝國内に於いても亜麻が耕作されて立派な繊維を産出した。然し羅馬人の消費する亜麻糸の大部分は矢張り埃及からの輸入に仰いで居たのである。
好戦國民であつた羅馬人は戦争以外の事は男の爲す仕事でないとして居つたから特に羅馬帝國の興つた始めの頃はリネンの紡績は婦人の仕事に主として委ねられて居つた。
棉花、羊毛、絹糸等に比して亜麻は最も古く利用された繊維であることは前記の通りである。就中十八世紀の終わりから十九世紀の初葉にかけて歐洲に於ける亜麻の栽培は他の繊維作物に比較して斷然一頭地を抜いて居た。
好戦國民であつた羅馬人は戦争以外の事は男の爲す仕事でないとして居つたから特に羅馬帝國の興つた始めの頃はリネンの紡績は婦人の仕事に主として委ねられて居つた。
棉花、羊毛、絹糸等に比して亜麻は最も古く利用された繊維であることは前記の通りである。就中十八世紀の終わりから十九世紀の初葉にかけて歐洲に於ける亜麻の栽培は他の繊維作物に比較して斷然一頭地を抜いて居た。
亜麻 | 43% |
羊毛 | 33% |
棉花 | 22% |
生糸 | 2% |
古代に使用された紡錘Spindleは常に桿DisTaffと共に無くてはならぬものであつた。準備の出来た亜麻は手で容易に原料を引き出す様な固さに圓く巻かれ桿の上部に突き刺して腰帯や胸部に近い位置に置かれる。繊維を引き出して撚りを掛け糸を作るのであるがそれは左手の拇指と食指で行われたもので出来た糸は紡錘に巻き取られる。
紡錘は羅馬時代には埃及のものよりは幾分形の変わったものとなって上部に廻轉中はづみを附ける爲に石、粘土、或は木で造った輪を附けるのが普通であった様である。
此の輪はウオールWhoreと呼ばれ後に紡車Spinnig wheelが出来てウァールWhirlに変化し現代紡錘のウァーブWharveに進化したのである。
此の古代の紡錘にウァールと呼ぶ小さな車が取りつけられたり軸承が付けられたりしてここに初めて紡車Spinnig wheelが出来上がった。
此の紡車が何処で創められたものであるかは明瞭に知られて居ないが多分印度であらうとせられて居る。亦最も古い記録は現在英國博物館に保存せられて居るキャノンロウCannon Law の草稿の中に見えて居るが之は十四世紀始めのものである。
併してこの紡車は紡績と捲取りが同時に出来なかったものであるが千五百三十年ジョンユルゲンJohnn Jurgennよって新しい紡車が發明され此の問題を解決して紡績能力を倍加した。面白い事にはこの發明に先達つ事数年伊太利の有名な發明家レオナルド ダ ビンチLeonard de Vinciによって此の原理が己に發見せられて居たと云う事である。
併し彼の考案は他の幾多の貴重な設計と共に筐底深く秘められて彼の死後始めて發見せられたのであつた。別圖に掲げた彼のスケッチは現在伊太利ミランMilanのアムブロジアン博物館Ambrosian Libraryに保存されて居る。
今日歐米に於いてはリネンと云えば純白の代名詞となつて居る位で吾邦で「雪の如く白し」と云ふところを彼じでは「リネンの如く白し」と云ふ言葉がある。
此の亜麻織物即ちリネンは古代より白色に仕上げられたものが多く隨つて此の言葉を生じた所以であるが埃及時代にはこの白地に風景を描く處理方法すら既に實行されて居たのである。
ギリシャ、羅馬人もリネンの晒白に数種の藥剤を使用した記録がありゴール人やブリトン人も簡単ながらリネン布の晒白に習熟して居つたようである。
参考文献
帝国製麻株式会社三十年史より