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日本古来の麻

日本古来の麻

麻は衣服の主役

我国の古い時代に、衣服の材料として利用されたものは、各種ありますが、記録からみると、穀とその同族の楮が多く用いられ、加工した布は、“木綿”又は“栲布”と呼ばれました。
然し、これらの樹皮繊維は、原料の採収や編・織への加工が難しかったことから、麻(大麻と苧麻)の利用が自然と増えたものと思われ、またこのことは、実際の出土品に麻を使ったものが大半を占めていることからも証明されています。
さて、麻の内大麻は、中国から渡来した帰化植物といわれ、縄文前期の鳥浜貝塚から種子と縄・編物が出土しています。
また、苧麻も帰化植物といわれますが、野生種(アカソ等)もあって、縄文晩期前半の中山遺跡からアンギン調(編み衣に由来するといわれ、編まれた袖無や前掛け等の総称)の編物が出土しています。
更に弥生前期(B.C.300年頃)に属する綾羅木遺跡からは、平織布(緯糸20本、経糸18本/cm2)が出土し、我国で最も古い織布といわれています。
三世紀になると魏志倭人伝の記述から、稲と共に苧麻と桑が栽培され、麻織物や絹織物・真綿が沢山作られていたことが知られています。
即ち当時は、衣服として、麻や絹が主に使われましたが、庶民用としての麻に使用が絹より多かったことは、その出土品等からも判断されます。
このように麻は、古代から中世に至る長い間、しかも四季を通じて(冬は単衣の重ね着、または苧屑・蒲の穂等を入れた袷を着用)庶民の衣服として将に主役的な役割を演じたものと言えます。

麻と庸・調

7世紀からの古代国家では、律令制によって民衆の労働や現場負担が国家財政の基盤となりました。
即ち、大宝律令(701年施行)や養老律令(757年施行)のもとで、麻は絹と共に庸・調の対象となり、奈良・平安時代を経て長く年貢としての役割を果たしました。
このように自家用の外に、国の財政を負担するための生産が強いられることによって、布作りの技術は各段に向上し、叩いたり、踏んだりする外、天日や雪や水に晒す手法が行われ、布はより白く、より柔らかく上質となってきました。
なお、その後醍醐天皇の延長5年(929年)に、越後の国外25カ国で生産される麻布を、庸・調としたとの記載が延喜式にも見られ、麻は古代国家に於ける納税手段として、極めて重要な役割を果たしました。

麻と軍需

吾妻鏡(鎌倉時代の史書)に、健久3年(1192年)源頼朝が勅使に、東国の名馬や絹糸と共に、越後上布千反を贈ったと記載されていることから、越後地方は当時苧麻布の生産が盛んで、しかも献上品として恥ずかしくない良質のものが出来ていたことが知られています。
この様な麻布の生産は、武家社会となった鎌倉時代から、室町時代にかけて一段と増加し、その利用も庶民の衣服の外、上流社会や武家社会の服装に使用され、中でも軍需としての用途が急増しました。
即ち、軍衣類は言うに及ばず、陣幕・旗差物・馬具・綱等々に広く使われ、特に陣幕は矢を通さぬことから、兜や鎧の裏地としては汗に強いことから、麻を最適として重要が膨らみました。

麻の礼服

江戸時代に入ると麻は、今迄のように四季を通じての衣服でなくなり、冬は次第に木綿に変わっていきました。
しかし、その需要は、衣服の外蚊帳の普及等によって支えられ、更に徳川幕府の寛永年間に、礼服として大紋(大形の家紋を5箇所に染め出した直垂で五位の武家以上の式服)などに加え、麻の裃が使用されるようになって、麻布の需要は元禄・享保年間に最盛を極めました。
これら礼服を主とした大きな需要に応えるため、越後の国やその他の苧麻産地で生産された青苧(苧麻の茎から剥いだ粗皮を手挽きして精製したもの)は、その多くが奈良に送られ、従来の糸績み、織布に、新たに晒加工の技術を加えた手法で、“奈良晒”が生まれて好評を博し、礼服の需要に大きな貢献をしました。
そして、苧麻の産地も越後の国の外、最上・米沢・庄内・会津へと拡がり、我国に於ける苧麻生産の黄金時代が出現しました。

 

上布

上布というのは、手績み(麻を細かく裂いて紡ぎ、撚り合わせる)した細い糸を、産地独特な技法で織り上げ、加工した高級な麻布のこと。

越後上布と小千谷縮

越後地方で早くから上布の生産が行われ、天正年間(1573年~1591年)に上杉氏が、原料からむし(苧麻)の栽培を奨励したことによって、越後上布の生産は一段と盛んになりました。
その後、寛永10年(1670年)、明石藩の浪士堀次郎将俊が小千谷在に移住して、越後上布の改良を試み、緯糸に強い撚りをかけて布を織り、仕上げで布にしぼ(縮しわ)を作ることに成功して“小千谷縮”の起源となりました。また、縞や花模様、絣りを織り出す工夫もしました。
上布と縮布の違いは、縮布が緯に強い撚糸を使う点で、それ以外は原料、作り方等総て同一です。
即ち、からむし(苧麻)の手績糸(青苧を親指と小指で細かく裂き、経糸用は結び、緯糸用は撚りをかけて糸とする)を地機で織り、雪晒しを行って仕上げたもので、昭和50年に、“越後上布”“小千谷縮”として重要無形文化財の指定を受けました。

近江上布

近江上布は鎌倉時代に京都の職人が移り住んでその技術を伝え、江戸時代に入って彦根藩の保護政策のもとで、農家は副業として着尺地、蚊帳地等を盛んに生産し、近江商人が全国に売り歩いて有名になりました。
近江上布は、昭和52年に伝統工芸品の指定を受けましたが、その技法は、生平(きびら)にあっては経に苧麻糸または手績み大麻糸を使い、先染め、平織りとし、絣糸の染色は櫛押捺染または型紙捺染によると定められています。現在、愛知川を中心とする湖東地区で、着物、服地向け上布、ふとん・座布団・シーツ向け縮等が生産されてますが、手績糸は影を潜め、苧麻糸(紡績糸)使いが主体となっています。

能登上布

能登地方は、平安時代から苧麻を栽培し、江戸時代中頃まで近江上布向けの原料としてきましたが、1814年の近江から職人を招いてその技法を導入し、能登上布の生産を始めました。
能登上布は、能登縮または安部屋縮(出荷港の名)とも呼ばれ、主な産地は石川県鹿島町・鹿西町・羽咋市等で明治初期には麻織物の生産全国一を誇り、昭和35年に石川県無形文化財の指定を受けました。
能登上布は、海晒しの麻織物として有名で、まず織り上げた布の糊を落とす為、海水に一昼夜漬けては乾かす作業を4~5回繰り返した後、欅製の臼に数反づつ入れて桐の杵で搗きます。次いで晒し桶でお湯をかけながら足でよく踏み、4~5時間寝かせた上で海水に拡げ、布を膨らませながらよく晒し、真水で十分濯いだ後海岸の岩場で天日に晒します。
能登上布の特徴として各種絣柄がありますが、この絣糸の染色には板締め、櫛押し捺染、ロール捺染、型紙捺染の手法が使われます。

宮古上布

宮古島で栽培した苧麻を手績みして糸を作り、手括りや締機で絣糸とし、琉球藍と蓼藍を混ぜた液で染め、高機で織り上げたもので、重要無形文化財の指定を受けています。
宮古上布には白絣もありますが、南国の自然をモチーフとした織り柄と黒に近い濃藍とが大きな特徴で、その艶のある深い藍の色合いは、織りあがった布地を水洗いして澱粉をまぶし、木槌で一万回も叩きつづける“きぬた打ち”や染めて乾かし、染めて乾かす作業を一週間も繰り返す丹念な布染めによって生まれるものです。

八重山上布

17世紀初め、薩摩への献上布として知られた八重山上布は、石垣島が産地です。
経苧麻糸、緯苧績糸使いで、同島産の紅露芋の色素で絣を焦茶に染めたもので、我国唯一の茶絣上布となっています。
平成元年4月に伝統工芸品の指定を受けましたが、その技法は苧績糸又は苧麻糸を使い、絣染色は手括りか手擢りこみによる先染とし、緯糸の打ち込みは手投杼を使って平織りとする、と定められています。

日本におけるラミー生産の沿革について

明治以前

ラミーは、生産面では専ら″苧麻″(大正以前の在来種・野生種は”からむし” “まお” “からそ”等)と呼ばれ、終戦後かなりの年月がたった昭和三十年前後から各方面でラミーと呼ばれることが多くなったが、″からむし″の起源は詳ではなく、中には史前帰化植物説を唱える人もある。その当否は別として、野生状態にあって繊維の利用が比較的容易に出来たことから、神代以来衣服や綱等として使用されていたことは古事記や万葉集等によって容易に推測される。考古学的には、弥生前期(紀元前300年頃)の綾羅木遺跡から出土した″からむし″の布断片(緯糸二〇本経糸一八本/㎝2)が日本最古の繊維利用の証として確認されている(織物の日本史―遠藤元男著)
栽培の記録としてはずーと降って醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)に、越後国外二十五カ国に産する麻布(越後上布)をもって庸・調とした事が延喜式に記されており、当時こ
の地方で″からむし″が盛んに生産されていたことが窺える。更に降って正親町天皇の天正年間(一五七三~九二)に上杉氏がその領域越後に於いて、″からむし″の栽培と上布の製織とを奨励して調とし、又織田信長に麻布一千反を贈ったとも伝えられている。その後上杉氏が会津・米沢に転領されると共にこれらの地方でも″からむし″の奨励が行われたため同地方は我国有数の生産地として長く命脈を保った(明治・大正年代を通じ、山形・福島・新潟・秋田県等栽培条件が好適でない北国での生産が多かった事がこの間の事情を物語っている)また南方では島津藩が″からむし″をもって上布を製織することを奨励したので、鹿児島・沖縄においても古来その栽培加工が発達した。徳川幕府の寛永年間(一六二四~四四年)に礼服として麻の裃が用いられるようになって、麻布の需要は飛躍的に増加し元禄・享保時代(一六八八~一七三六)その生産は最盛を極めた。然し明治年代となって、服制の変革や安価な綿布の増加等があって″からむし″の生産は逐次減少し、明治二〇年に約二〇〇〇トンと記録されていた生産量が明治末期には四〇〇トン程度にまで減少している。

大正から昭和初期

大正年代に入って苧麻の生産は引きつづいて減産傾向を辿ったが、苧麻の紡績工場は、折から軍需景気に沸く亜麻紡績の刺戟をうけた事や精練技術の開発をみた事等によって、従来の手紡ぎ家内工業から企業化への気運が盛り上がり、苧麻紡績会社の設立が相つぎ(東洋麻絲紡績株式会社(現トスコ株式会社)の設立は大正7年)苧麻工業は著しい発展を遂げた。これに伴って原料苧麻の需要量は飛躍的に増大したがその原料の殆どは支那産に頼る以外になく、当時の年間輸入量は一〇,〇〇〇トンを超える状況にあった。このような状勢から農商務省は苧麻を国内で生産することを企画し、大正六年栃木県農事試験場に鴛海文彦技師(昭和二二年東洋繊維株式会社(現トスコ株式会社)入社、研究部長を等歴任)によって各種試験が開始された。まず栽培の基本とも云うべき品種の選定については、南方系のものも導入した比較検討が行われ、大正十二年に台湾系の白皮種の成績が最も良いことが確認された(この白皮種は後年宮崎農試川南分場で選抜された細茎青心種と共に、我国二大品種として生産の拡大に大きく寄与した)一方適当な剥皮機がないため繊維の採取は専ら手工に頼っていたが、フランスで開発されたフォール型剥皮機を原型とする国内向け改良型が、石井式、池田式、清藤式と相ついで製作された事もあって、苧麻生産上に於ける大きなネックが解消し、その栽培は極めて有望視される状況になった。

ラミー原草の剥皮風景(写真は東繊式剥皮機、昭和二三年当時)

加えて昭和四年には暖地に於ける苧麻の試験を行うため、宮崎県農事試験場、川南分場が苧麻指定試験場に追加指定され、ここに国産苧麻推進への基礎固めが確立するに至った。

 

昭和初期から終戦

昭和の初期における国内苧麻紡績業者は、東洋麻絲紡績(現トスコ株式会社)東京麻糸・帝国製麻(現帝国繊維株式会社)等七社で、その使用原料は前述の通り殆ど支那からの輸入によって充足され、国内生産は昭和八年で僅か一六〇トンと需要量の一%程度を占めるにすぎなかった。
そこで需要七社は、苧麻製品が一般必需品であるばかりでなく、軍需品としても将来その発展を期すべきもので、原料苧麻の国産化は国策上から極めて重要でるとして、農林省に対し苧麻の増産奨励について陳情を行った。このような事から昭和九年に、苧麻生産奨励金交付要綱が制定され、苗圃の設置、苗・剥皮機の購入等に対する助成策が実行されたため苧麻の生産は漸次拡大し、北は山形・宮城県から南は鹿児島県に至るまで三十数県に亘って栽培されるようになった。
昭和十二年日支事変が始まると麻類の需要は急激に増加し、昭和十三年国内苧麻繊維は総じて軍需品や漁網糸用に供出するよう統制され、昭和十五年には重要国策として麻類の計画生産が行われる事となった。即ち苧麻については六〇〇〇トンの生産目標が定められ、各種増産奨励施策が強力に推進された結果生産量は飛躍的に増加し、昭和一六・一七年には五〇〇〇トンを超す状況となった。然し乍ら第二次大戦の激化に伴って食糧事情の窮迫や肥料・石油等の生産資材、更に労力の不足等によって生産は漸次減退をきたし、終戦時における苧麻の生産は最盛期半減の二六〇〇トンへと減じ、昭和二十二年には四四〇トンと昭和八年に本格的奨励を始めて以来の最低を記録するに至った。
(注)東洋麻絲紡績三原工場が陸海軍の管理工場に指定されたのは昭和一三年でその後昭和一九年には軍需会社の指定を受け、学徒、挺身隊等を加えて増産操業を行った経緯がある。

終戦後の経緯

戦後は苧麻の用途も民需や輸出に切替えられて、シャツ地・服地・生尺地・芯地・蚊帳。漁網糸・縫糸等として需要の拡大をみる一方、輸入原料の途絶や、国内産の減少等もあって原料事情は極端に逼迫してきた。従って需要四社(東洋繊維(現トスコ株式会社)・日本繊維・東京麻絲・鐘淵紡績)は農林省に対し、再度国産苧麻の増産に積極的に施策を講じられるよう陳情すると共に各社夫々の対応を行った。
東洋繊維は主産地である南九州地区(苧麻の栽培地は年と共に漸次北から南に移動し、中でも九州南三県=熊本・宮崎・鹿児島=がその生産条件の好適することもあって全国生産量の大半を占める趨勢にあった)の推進基地として、昭和二十二年に熊本市立田山(120ha)に苧麻の試験農場を開設し、品種改良や栽培に関する試験研究を行って苧麻生産者への啓蒙を行い、略々同時期に開設した熊本・宮崎出張所の活動と併せて増産意欲の向上に努めた。

立田山農場のラミー刈り入れ風景

かくして国産苧麻は再び増産の途を歩み、昭和三十年には四〇〇〇トン近い生産量を挙げるまでに回復した。丁度この時期、麻業界は不況の極に達し生産は急速な減少をみた。然し以外に早い立ち直りと共に昭和三十二年には、原料苧麻はまたまた不足する状況となってきた。農林省は、過去の経緯を踏まえたラミー増産指導要領(公式に初めてラミーと呼ばれた)を新に作成し、需要四社(昭和二九年に鐘紡に替わって帝国繊維株式会社)の国産ラミー優先買付を条件として、一六八〇haの限定面積によって三〇〇〇トン(当時四社の需要量約四〇〇〇トン)の生産を目指す事とし、昭和一七年設立以来、国産麻類の増産活動を行ってきた植物繊維生産協会に、ラミー生産合理化推進協議会を設置して、刈取機や自動剥皮機の開発を目指す等ラミー生産再復興に向かって懸命の努力を傾注した。にも拘らず当時ブーム状態であった畑地の開田や有利な園芸作物に押されて、更には労力不足も加わる等して逆に漸減の一路を辿り生産者はラミーに対する栽培意欲を全く喪失し、昭和四十一年には一〇〇トンを割る状況となり昭和四十五年の八トンを最後として、国産ラミーは全く姿を消すことに至った。
一方、三十年代からフィリピン、四十年代からブラジルの生産、輸出が本格化していたことにより、日本におけるラミー産業が引き続き順調に推移したが、現在では中国が栽培の主産地となっている。

 

参考文献

「麻の知識」 山守 博 会長著
「東洋繊維 50年史」

 

投稿日:2019.11.16 更新日:

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